心理的な事実~事業を本当に成功させるために市場の声を聞く実業家にとっては、直覚的な事実を把握できる能力こそ重要だ

にしむらひろゆき氏の勝ちと言わざるをえない

勝間氏に非難が多い原因の一つは、多少強引とも見える議論の進め方だろう。
自分が絶対に正しいという自信がにじみ出ているから、にしむら氏を見下しているような印象にもなり、また議論がかみ合わないことに苛立ちを隠さず、終いには『だめだこりゃ』と議論を投げ出すような発言まで飛び出しては、そもそもにしむら氏のファンも多いTwitterユーザーから見れば不遜と言われても仕方がなかろう。
議論の内容以前に、この雰囲気を敏感に感じて反発する人が大変多い。

勝間氏の仮説は非常に雑駁に言えば次のようなものであろうことが対談から推測される。

『日本は衰えたりとはいえそこそこ豊で社会インフラはしっかりしているのに、幸福度調査国際比較で見ると幸福度はOECDの中では最低レベルであること。
それは、日本は起業が難しい環境になってしまっており(実際に起業も少なく)若者が閉塞感を感じるような環境にあることが主要な原因で、まして昨今では収入が減っていることも大きい。』

日本は幸福度ランクが低いことと(World Value Survey の調査結果等が著名) 若年層の起業が少ないこと(Global Entrepreneurship Monitor 2009 Report等が著名)は確かに客観的な事実で、それ自体は間違ってはいない。
日本が米国等と比較して起業がなかなか出来ない環境であることも、若年層の閉塞感が強いことも、幾つかの統計から確認されつつある『事実』だと思う。
その閉塞感が強い状況が幸福度が低い主要な理由であるというのも(私は必ずしもそうは思わないが)一面の事実だと思うし、個人的な意見としてならさほどおかしくはない。
どうやら勝間氏は、2ちゃんねるを立ち上げた起業家でもあるにしむら氏なら、当然同じような意見を持つと考えたふしがある。
だが、にしむら氏は乗ってこない。
あせった勝間氏は、『若者が起業ができない日本の環境はおかしい/若者はもっと起業すべきだ』、というのはさすがに自明だろうとして、何とか同意を得て、接点をつくろうとするが、これにもにしむら氏はまったく乗ってこない。
終いには、日本は幸福度が低いというのは客観的なデータも示しているのだからせめてそれくらい同意できるだろうと迫る。
だが、この点に至っても、にしむら氏は統計データがどうかは知らないが、自分は水も安全もある日本は国際的に見ても比較的幸福だと思うと真剣に反論する。

経済成長=幸福なのか?

経済成長=幸福度』というような単純な構図には無理があると思う。
勝間氏が経済成長=幸福度アップと考えているとまでは言い切れないとは思うが、『収入アップなくして幸福なし』というようなニュアンスの発言もあり、若者の閉塞感を起業/ビジネスにすぐに結びつけるような発想から見ても、あるいは普段の他の場での発言を拝見しても、幸福度に経済的な要素は不可欠との認識を常識として持っている人であることは確かだろう。
だが、これは本当に自明で一般的な真理だろうか。

内田樹氏のように、金銭が社会の唯一の価値軸となっている日本の現状こそ問題と主張する人もいる
『どちらが正しいか』という論争をする気はない。
ただ、『経済成長=幸福』という仮説がそれほど自明でも一般的でもないことは指摘しておきたい。

客観データは万能なのか?

調査というのは、誰にとっても明らかで比較可能なデータを入手するために、人間の無数の経験や感じ方、気持ち等の中から計量可能で客観的なものだけを狭く限定して選び取る性格を持つ
そういう意味で本来非常に荒っぽい作業である。
このきめの粗いたもあみで掬い取るには、幸福度というような抽象度の高い感情はあまりにデリケートだ。
実際、漏れてしまった事実は多いだろう。
私に言わせれば、洗練された純度の高い個人の感性で感じ取るのでなければ、実際に起きている心理的事実を把握することなど到底できたものではないと思う。
しかも、同じ言葉で言い表した気持ちとて、個々には相当な開きがある。

幸福度調査の事を聞かれて、にしむら氏はあくまで『自分がどう感じるか』ということを重視する姿勢を見せた
実のところ、これこそ、心理的な事実を把握し理解するためには一番大事なアプローチだと思う。
統計データをどうこねくり回しても、非常に微妙で繊細な事実を認識し理解することなどできない。
まして、事業を本当に成功させるために市場の声を聞く実業家にとっては、このような直覚的な事実を把握できる能力こそ重要だ。
今回、にしむら氏に、成功する実業家の本質を見た思いがした。
特に、今日のように常識も権威も崩壊しつつある時代には、このような常に謙虚で、感度を澄ましているような姿勢は決定的に重要と言っても過言ではない。
もちろん客観的であることにはそれなりに重要な意味がある。
特に、沢山の人の同意を取って、出資を仰ぐような必要があれば、客観的なわかり易さは必然である。
だが、直観や感性が非常に重要になってきていることを理解できないようでは、にしむら氏のようなタイプの人物を理解するのは不可能だし、起業を成功させるのも難しいのではないか。

『正しさ』を主張する人だけがいつでも正しいのか?

これも非常に微妙なニュアンスなのだが、『正義』や『正しさ』をたてて人を論難したり主義を通そうとする姿勢そのものに潜む欺瞞をこの対談はひどく意識させてくれる。
このことは、吉本隆明氏が親鸞上人について語る時に繰り返し出てくる観点でもあるのだが、『正義』を自分の内に持って自らを正そうとするのはよいが、これを外に出して、他人や世間に押し付け、人を裁くようになると、どうにも怪しさと危うさが漂うようになることが多い
吉本氏がしばし例にひくのは、禁煙嫌煙だ。
煙草が体に良くないから禁煙しようと個人が考えるのはいい。
だが、これを権利として『嫌煙権』を他人に強要しようとすると、どこか窮屈でいたたまれなくなることを感じたことはないだろうか。
昨今の日本は、安心/安全の旗頭の下に、徹底的に正義を押しつけ合い、社会全体が非常に窮屈になっている。
私などこれこそ幸福度を下げる重要な要因の一つなのではないかとさえ思う。
どんな細かいことでも始終『善』や『正義』でお互いを責め合う社会に私は住みたいとは思わない。

「勝間和代vsひろゆき」討論はとても大切なことを世に問うている - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

当事者意識のない人は現場を語らない方がいい。
幸せのわからない人は幸せを語ってはいけない。

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