未知状況で安心を伝える
- 原発災害の当初、情報が錯綜して、不安になった。そんな頃に発信された、日本の原発についてのお知らせ という、英国大使館の現状に対する見解をまとめた文章を読むことで、大きな安心感が得られた
- 「ワーストシナリオとその対策を語る」こと、「今公開されている情報を吟味して、そこから導かれた見解を述べる」こと、「今までに発生した「本当の最悪」との比較を行ってみせる」ことが、未知の恐怖におびえている状況を安定化させるのだと思う
- 「大丈夫だ信じろ」という言葉では、安心感が得られない。「ワーストはこうだ。対策はできる」と言われると安心できる
- 「安全な最小値」と比較して何倍、という表現は安心につながらない。「本当の最悪と比較して何分の一」という言い回しは、同じ大きさを表現するにしても、安心感がある
- 根拠を示さずに「大丈夫です信じて下さい」を繰り返す人は信頼されない。すでに公開されている情報をお互いに共有して、その信憑性や評価を行ってみせると信頼される。信頼された人が「大丈夫」という見解を語ることで、初めて安心が生まれる
- 英国大使館の文中、本当の最悪として、チェルノブイリの事例が引用されていた。原発の仕組みが異なるから、本来この比較は正しくないのかもしれないけれど、誰もが知っている最悪を引き合いに出して、今想定されるどれだけひどい事態が発生しても、50km 離れて10日間我慢すれば、おおむね容認できるリスクで過ごせるよ、という落としどころは、とても分かりやすかった
すでに災厄に巻き込まれている人への対応
- ワーストケースシナリオを引き合いに出す伝えかたは、すでに災厄の渦中にいる人たちへの説明としてはふさわしくないように思えた。危機対応をするときには、危機の当事者に対する説明と、周囲から危機を見守る人たちへの説明と、異なったやりかたを選択するべきなのだと思う
- 当事者に対する説明は、まずは「成功していること」から入るのが、おそらく正しい。楽観と悲観と、災厄の渦中にある人は、すでに悲観に振り切れているから、まずは部分的な成功を語って、悲観に対する暫定的な対処を行ってから、現状の説明と、ワーストケースでなく、もっとも可能性の高い見通しを語るのがいいような気がする
- 楽観的な見通しは不信を招く。「蓋然性の高い見通しはこうで、今はそれを実現すべく、こんなことをしています。状況が悪化した場合に備えて、こんな準備をしています」といった語りかたが無難であって、これは患者さんに病状説明をするときの基本でもある
- 情報の伝達は、イベントごとでなく、時間ごとに、定期的に行うほうが望ましい。何が起きても、「あと○時間したら会見がある」と分かっていれば、多くの人は待てる。先が示されないと、憶測ばかりが広がっていく
- 情報は公開するべきだけれど、公開された情報には、公開する側の見解をつけないといけない。見解の相違は議論を生むけれど、見解の不在は際限のない憶測を生んでしまう
語るべき順番がある
- 作戦を立てるときには、まずは補給のことを考える。使えるお金や人員、それを使って、そもそもどの程度の作戦が遂行できるのか、まずはそうした大枠を決定して、そこで初めて戦略を考えられる。枠組みが決まって、方針が決定されて、それでようやく、個々の作戦を考えることができる
- 報告するときには順番が逆になる。最初に報告されるべきは「戦果」でないといけない。それを聞いて安心できないと、戦略には耳を傾けてもらえないし、そもそも兵站要素というものはつまらないから、興味を持たれない
- 「爆発しそうだ」というニュースが何度も流れた夜、情報は足りなくて、とにかくこのあと総理大臣の会見があるからそれを待ちましょうなんて、どのチャンネルを見てもそういう流れだった、あの日の会見は最悪だった
- あの時期、情報を持っているのは東京電力と政府だけで、政府のトップが「情報を出す」と宣言して、総理の口から出てきたのは「がんばっている」という言葉だった
- 総理は最初に、全国の人たちが「がんばっている」こと、自分もヘリで全国を視察して「がんばっている」ことを伝えた。「がんばっている」の連呼で10分間、原子力発電所の現状はどうなのか、それがいい結果にせよ、悪い結果にせよ、日本中が注視している中、総理はひたすら、「それ以外」のことをしゃべり続けて、「戦果」への言及は別の大臣に譲った
- 最初に語られた「誰もががんばっている」という発言は、言ってみれば「兵站」の報告だった。誰もが「がんばっている」のは当然のことであって、ここから語る人というのは要するに、「自分は信用されていないのではないか」という不安があるから、最初に「信用してください」なんてメッセージを送ろうとして失敗する。聞き手がリーダーを信じていない、リーダーもまた、国民を信じていないとき、まず真っ先に兵站が語られて、両者の溝は深まっていく
- 状態の悪い患者さんを経験の浅い研修医が受け持って、病状をご家族に報告しなくてはいけないときに、同じようなミスをする。悪い話は誰だってしたくないから、研修医はたいてい、時候の挨拶をはじめて、そのあとずっと、病気の原理や治療方法を、教科書の朗読みたいな話を続ける。ご家族にしてみれば、とにかく現状はどうなのか、それがたとえば手術だったら、それが成功したのかどうか、まず真っ先にそこを聞きたいのに、研修医は「本質を」語ろうとして、ご家族からは「どうでもいいこと」を延々と語っているように聞こえて、かえって不信を深めてしまう
- 自分の責任で何かの決断をして、それが裏目に出ることなんていくらだってある。誰でも我が身はかわいくて、保身は大切だから、我が身をかばった帰結として、自分たちの業界では、「手術は成功しましたが、患者さんの状態は必ずしも楽観を許しません」という言い回しに、たいていの人が行き着く。問題のスケールが違いすぎるけれど、こういう順番がなされていないあの時点で、総理はたしかに「仮免許」の人なんだろうと思う
危機コミュニケーション覚え書き - レジデント初期研修用資料