本年最後のブログ執筆となる今回は、先週木曜日にもTwitterで指摘した東京電力株式会社(以下、東電)のでたらめな処理の仕方に対する反論を記しておこうと思います。
まずは今週月曜日に東京電力福島第1原発事故調査・検証委員会により示された中間報告書について言及しますと、本ブログでも様々な観点から幾度となく指摘してきたように(下記①~④参照:北尾吉孝日記より抜粋)、やはり天災というよりは人災であると言い得ることがより分かってきました。①2011年3月15日『福島原発事故は天災か人災か』【聞く所によれば今回問題となっている原発は40年も前に作られたものだそうですが、今日までの40年間、その原発がどのようにメンテナンスされ、そしてまた機械器具装置の入れ替えがどのように実施されてきたのかということを私は問いたいと思っています。
もし上記対応が何もなされていないということであれば、今回の事故は人災という他ありません。
2007年に起こった「新潟県中越沖地震」により柏崎刈羽原発が被災した際、原発に関するあらゆる事柄を見直さなければならなかったわけですが、今回の福島のケースでは安全弁とされているものが何一つワークしなかったというように伝えられており、天災なのかあるいは人災なのかについては徹底究明すべきです。】
②2011年4月1日『福島原発事故に対する政府・東電の責任』【私は先月15日『福島原発事故は天災か人災か』と題したブログを書きましたが、その後出てきた様々な事故関連の情報を見るにつけ、人災的要素が大きいというように思わざるを得ないような状況になっています。
日本政府と東京電力株式会社(以下、東電)の責任が、いよいよ明らかになってきたのです。
第一にTwitterでも呟いた通り、原子炉冷却において何故最初から海水を注入しなかったのかということです。
東電は原子炉を廃炉とすることに抵抗し初期段階で海水による対処を行いませんでしたが、それ故に炉心融解が起こるというようなことに繋がって行ったとしか私には思えません。
次に米国のルース駐日大使もTwitterで述べていたように、当初から米国政府は「東京電力福島第1原子力発電所の事態悪化に備え、放射能被害管理などを専門とする約450人の部隊を日本に派遣する準備」等をしていたにも拘らず(※1)、日本政府がその受け入れを拒んできたということです(※2)。
菅総理は如何なる根拠に基づいて「日本だけで対処出来る」というように考えたのかと、その浅はかさに開いた口が塞がりません。】
③2011年5月13日『「自由企業体制の資本主義の精髄」に関する考察』【東電のような独占禁止法違反状況とも言えるパブリックカンパニーなどというものが認められている現状自体が可笑しいと思うのです。
より厳しい競争条件を作り出し夫々を競争させていたら、今回のような福島県での惨劇も起こらなかったかもしれないわけで、様々な面において競争がなかったからこそ人災が引き起こされたとも言えるのではないでしょうか。
競争こそが色々な不合理やそれらの問題を解決して行く方法ですから、競争させないメカニズムにしていたからこそ、40年前に作られた原発がそのまま生き残ってしまうということになるわけです。
言うまでも無く、万が一の事故を起こせば破綻に繋がるというリスクも常に抱えながら、企業経営というのはなされて行くものです。
そして、そうした破綻に繋がらないようにしようと思うからこそ、当該分野における技術革新を適時導入して行くのであり、競争のある世界であれば40年前のものがそのまま生き残るなどとは到底考えられません。
また、競争のある世界であれば、賠償資金が確保出来ないからといって電気料金を値上するということなど出来るはずもありません(※3)。】
④2011年7月22日『新たな日本創造への処方箋』【戦後60年以上に亘る自民党長期政権下において築き上げられた政官財の癒着構造こそが諸悪の根源であり、今回の原発問題が生じたのもある意味では原子力安全・保安院や原子力安全委員会、東京電力株式会社といった所が自民党政権時代に強固な癒着関係を構築し、ありとあらゆる改革改善を阻んできたことに因るわけです。
本ブログで幾度か指摘してきた発送電分離や周波数統一といったものの実現を阻んできたのも、正に上述の癒着関係であります。
そしてまた、国会においては老朽化した40年以上前の原発に対して見直しを求める指摘が日本共産党議員からもありましたし、米国からも同じ様な指摘があったと聞いていますが、そうした中で前政権は何の対処もしてこなかったわけですから、その意味においては現政権というより前政権からのレガシーというものなのです。】「ウォール・ストリート・ジャーナル日本版」の「当局と東電の深刻な対策不備を指摘―福島第1原発の事故調が中間報告」という記事にもあるように「同報告書は(中略)東電が先に発表した事故直後の対応で運営上の重大な過失はなかったとした自己調査の結果と真っ向から対立する」ものとなっていますが、今週火曜日の読売新聞記事『東電の初動「誤り」、冷却の空白招く…事故調』でも下記述べられている通り、非常に基本的なミステイクがあったということが指摘されています。
『報告書によると、1号機では3月11日、緊急冷却装置「非常用復水器」が津波による電源喪失で停止したが、吉田昌郎所長(56)(当時)や本店幹部らは正常に冷却していると誤認したまま、8時間以上気付かなかった。これが、対応の遅れにつながり、格納容器の圧力を抜く「ベント」や原子炉への注水が始まったのは翌日だった。
3号機では13日未明、緊急冷却装置「高圧注水系」を手動停止したが、別の注水手段への切り替えに失敗、冷却できなくなった。中間報告では手動停止を「誤った措置」と断定し、7時間近い注水中断を「極めて遺憾」と批判した。
官邸では当時、3号機の代替注水について「海水を入れると廃炉につながる」との意見が出ていた。現場では海水注入の準備が整っていたが、官邸に派遣されていた東電社員から「淡水の方がいいとの意見がある」と聞いた吉田所長は、淡水ラインに切り替える作業を指示。だが、淡水は13日午前9時25分の注水開始から約3時間で枯渇し、海水ラインに戻す際に52分間、冷却が中断した。
報告書は1、3号機とも、注水が早期にできていれば、放射性物質の放出量を減らせた可能性があるとした。』また、今週火曜日の日本経済新聞記事「失われた6時間、なお残る疑問 原発再稼働へ安全性鍛え直せ 政府事故調が中間報告」でも「運転員は非常用装置を動かした経験がなく、発電所幹部も装置の機能をよく理解していなかった」と述べられていますが、上述の吉田所長がどういう初期動作をとるべきか、あるいは如何に停止すれば良いのかといったことを全く分かっていなかったというのはあり得ないことであって、仮にも原子力発電所を運営している者であるならば、まさかの時に備え様々な訓練を実施しておくのが当然の責務と言えましょう。
例えば、この間の日曜日に「日本海海戦」で最終回を迎えた「坂の上の雲」のように「天気晴朗ナレドモ浪高シ」というのは訓練せずして的中率向上は図り得ないということであって、日本海軍とロシア海軍の訓練の度合いに大きな相違があったことがあの歴史的な戦勝に結び付いたわけですから、訓練というものが如何に大切かについてこうした歴史からも学ぶべきであったのです(参考:2011年12月15日北尾吉孝日記『「坂の上の雲」のテレビドラマ化』)。
詰まる所まさかの時に備えた日頃の訓練が今回全く為されていなかったというわけですが、更に酷いのは今回のような事故が起こることはないといった前提において、例えば全員分の防護服すら置いていなかったわけですし、そしてまたa.上述の日経新聞記事やb.今年4月のブログ『東電国有化論の根拠』における下記指摘にあるような状況でしたから、火山列島かつ地震大国の日本では信じ難い状況というものがそこにはあったのです。a.『例えば巨大な津波は本当に想定外だったのかと、多くの国民が疑問を抱いている。
報告書によると、政府の地震調査研究推進本部が2002年、海溝型の大地震が福島県沖でも起きる可能性を指摘した。これを受けて東電は08年までに福島第1原発で15メートルを超える津波の恐れがあると試算したが「直ちに設計に反映させるレベルのものではない」と対策を講じなかった。
政府の中央防災会議も「近い将来に起きる可能性が小さい」と国の防災対策の検討対象から除外した。土木学会も津波の想定を見直さなかった。
地震学者の警告が軽視されたいきさつを報告書は示したが、一連の判断が産学官がもたれ合う構造的な要因によるのか、踏み込むのを避けた。』
b.【今回の事態に関して菅首相並びに枝野官房長官は口を開けば“想定外”と言いますが、一体如何なることを想定外と言うのでしょうか。
例えば想定外の高い津波によって原発の電源喪失の事態が発生したというわけですが、本当にそれは想定外の事態なのでしょうか。
今回の津波というのは1896年の明治三陸地震津波とほぼ同規模であったというように見られており、115年前の事態と殆ど同じであることを想定外などというように言える根拠はどこにあるのかというわけです。
地震のエネルギーの蓄積というのは大体80年から100年位の間に出てくる可能性があると捉えなくてはならず、1923年9月に起こった関東大震災から見るとそろそろエネルギーが溜まっているのではないかということで東京でも大地震が心配されているのです。】上記のみならず悉くそうした杜撰な状況であったということ、そしてまた今週火曜日のMSN産経ニュース『原発事故調報告 「首相の人災」検証を急げ』でも下記述べられているように菅直人氏の対応が如何にお粗末なものであったかについては、これから次々と明らかになって行くと思われますが、その過程を経て仮に関係者が日々訓練を怠らずあらゆる面で確りとした備えをしていたならば、今回の問題はあれ程の大惨事には至らなかったということが認識されるに違いありません。
『東京電力福島第1原子力発電所事故に関する事故調査・検証委員会の中間報告がまとまった。
首相官邸の機能不全を明らかにするなど、政府の情報収集とその伝達、発信に問題があったと指摘している。
(中略)しかし一方で、菅直人前首相の事故対応については検証が進んでいない。最高権限を持つ首相の一連の判断や行為が事故の拡大にどう関係したかを解明し、その責任を明らかにする必要がある。
(中略)事故調委は意思決定に関わった首相や閣僚からは事実関係の調査をすべて終えてから事情聴取するという。
すでに、事故から9カ月以上が過ぎている。人間の記憶は時間とともに失われる。一刻も早く事情聴取を行うべきだ。
(中略)菅前首相の行動には、多くの疑問点が指摘されてきた。
事故直後、混乱が続く現場をヘリで訪問した。対応に人手を取られて排気作業が遅れ、水素爆発へとつながった疑いがある。作業員の一時的避難を現場放棄と勘違いして東電に乗り込み激怒した。これらの行動に、側近からも首相の資質を問う声が出ている。一つひとつを厳しく調べるべきだ。』上述してきたことを考慮するならば、やはり今回の大惨事は天災というよりも人災であったと言わざるを得ず、上述の中間報告書にもある『「想定外」の事柄』ということでは済まされないわけです。
そうなりますと、下記「原子力損害の賠償に関する法律」(法令番号:昭和三十六年六月十七日法律第百四十七号)の第二章・第三条但し書きで争点となる東電の過失というのは当然問われることになり、法的文脈で言うと国家補償は本来適用出来ないことになるわけです。『原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。』
即ち、天災とは言い得ない状況において東電の過失が問われるならば、当然のことながら損害賠償責任はまず東電が負わなければなりませんし、民間企業として破綻するという所まで基本的にはあらゆる事柄に対する補償を行わねばならないのです(参考:2011年4月28日北尾吉孝日記『東電国有化論の根拠』)。
それ故そもそもが東電処理の仕方として当初から誤っていたわけで法的処理すべきケースであったと思われますから、本ブログ等を通じて私がずっと言い続けているように、まずは所謂私企業としての東電に対して法的処理を行い、そして一時的に国営企業にするのが全うなやり方であったということなのです(参考:2011年4月12日北尾吉孝日記『野党の民主党批判は御門違いな面も』)。
それにも拘らず、今回のように東電の上場維持が図られ債権者負担も厳しく問わずして、公的資金の注入及び電力料金の値上げという国民負担により方を付けるといった有耶無耶で中途半端な処理の仕方を選択するわけですから、正に資本主義国では理解不能とも言い得る破綻処理の原則や制度等を全く無視した国のやり方には私は賛同し兼ねるのです(参考:2011年5月13日北尾吉孝日記『「自由企業体制の資本主義の精髄」に関する考察』)。【投資家の権利という観点から言えば、(中略)公開企業に対して政府が「あれをしなさい」,「これをしなさい」という権利は全く無いわけで、如何に公益性の強い事業を運営していても公開企業は株主のものであるということを忘れてはなりません。
(中略)その一方で投資家の責任という観点から述べますと、(中略)東電のように独占的利潤を上げていた企業の株主に長期間なっていれば、非常に高額な配当を継続的に受けることが出来ていたわけで、今回のような問題を起こし破綻したのであれば、株主も当然その責任を負わねばなりません。
それについては債券保有者も同じであって、公開企業の倒産という状況の中でその責任を負うというのは当たり前ではないかと私は考えています。
(中略)『東電賠償スキーム、事実上株主・社債権者などを免責』と題された記事にあるように、「巨額の損害賠償が発生し、債務超過に陥れば優先・劣後関係の中で損失を負担していくのが金融市場の原則(中略)」
(中略)JALの場合は「会社更生法で処理されたので、株式は100%減資され、長期債務と社債は87.5%カットされ、産業再生機構が9000億円の国費を投入」するということになりました(※4)。
(中略)一度破綻したならば東京電力のようなところは一時国営企業にし、それを発送電を分離、次世代の送電システムの構築を担う新たなる企業に再生して行くというのが、在るべき資本主義の姿ではないかと思います。
(中略)『パブリックカンパニーとは何か』という観点から東京電力処理の混乱状況を見るにつけ、やはりこの国は根本的には法治国でもまともな資本主義国でもなかったのではないかというように感じています。】(2011年5月18日北尾吉孝日記『パブリックカンパニーとは何か』より抜粋)。従って、今からでも遅くはありませんから、上記中間報告書が提出された今というタイミングで菅内閣時における破綻処理のやり方をもう一度全て改め、東電を完全に国有化すべきではないかと私は考えています。
また、仮に東電が国の管理企業のようになるのであれば、株式市場の公正という観点から考えても上場維持は難しいことですから、株式会社東京証券取引所が東電を上場廃止にすべきことは言うまでもありません。
そして昨今、その完全国有化を実施する前に何やら発送電分離の議論がまた熱心になされてきていますが、上記引用にもあるように本ブログでも度々主張してきた通り勿論ある段階においてそれも実現せねばならないと考えてはいますが、発送電分離というのは基本的に東電を破綻処理しなければ出来ないことですから、まず先に為さねばならないのは東電の完全国有化なのです(下記参照:2011年12月27日中日新聞「発送電分離などを議論 枝野経産相が電力改革で論点整理」より抜粋)。『枝野幸男経済産業相は27日、電力改革と東京電力に関する閣僚会合で、新規事業者の参入を促すため、電力会社が発電から送電、小売りまでを一元的に担う現行体制を見直し、発電、送電、小売りを分ける「発送電分離」の検討など、改革の論点整理を示した。これを受け、政府は電力制度改革の議論を本格的にスタートさせる。
(中略)経産省の総合資源エネルギー調査会に電力システム改革専門委員会を設け、年明けから議論。2013年の通常国会で電気事業法改正案の提出を目指す。』以上、『今再び問われる東電処理の在るべき姿』と題して3.11以後の小生のブログも多数引用しながら述べてきたわけですが、結局税金投入と料金値上げによって国民に大きな負担を求める形で事を済まそうなどというのはとんでもない話です。
こうした政府によるある意味での不正を目の当たりにし、「国民を馬鹿にするのも良い加減にして欲しい!」と私は強い憤りを覚えているところです。今年一年、小生の拙いブログを御愛顧頂いた皆様には厚く御礼を申し上げます。
来年が皆様方にとって良い年になりますよう、心より祈念致します。参考
※1:原発事故直後、日本政府が米の支援申し入れ断る
※2:米軍、放射能専門家部隊450人派遣準備 日本はアドバイザー利用が有効
※3:東電、原発補償へ公的管理 政府支援の枠組み決定
※4:賠償スキームの謎
北尾吉孝日記